私の作品は単なる創作物
私はあまり自分の書いているものを「作品」と呼ばないようにしてます。
文脈で「作品」という単語を使うのが自然な場面では使いますが
なるべく「創作」や「創作物」というワードを使うようにしています。
どうしてなのか、理由があります。
私は表現をしていない
ズレの回収をしているだけ
正確には何かを表現しているから
「表現していない」って言い切るのはおかしいかもしれません。
でも、表現をしているというより
「自分の中でのその言葉へのズレ」をずっと回収し続けています。
なので、私にとって創作とは「自己調律」です。
表現ではなく、自分の内面を整えるためにやっている。
だから、なんかちょっと私の文章には違和感がある方が多いんじゃないかと思います。
構造で読ませる
わからせてしまう暴力
私の本業はITエンジニアです。
仕事をしている時は、常に論理的思考を求められています。
そんな生活を長くしているせいなのか
とにかく筋が通っていないと嫌。
なので、「ズレ回収」の中に2種類あって
ひとつは「論理的な飛躍がないか」
もう一つが「その表現に違和感がないか」です。
さながら、プログラミングの変数定義と
その処理フローを書いている感覚です。
そうすると、何が起こるかというと
「わかりたくない感情を、論理構造で読まされてしまう」
それが、私の文章が「なんか読んでて疲れる」原因です。
論理に感情が乗った時、それは暴力になる。
それは、私が昔経験した会社員としての周囲との関わりの中で思ったことです。
「やめて。私そんな気持ち、わかりたくない」
でも展開が気になって、読んでしまう。
ある程度、意図的にやるといいんだろうなって思っています。
表現の対象を選ぶ
でも、その力を使うに当たって、
表現の対象は選ばないといけない。
私は「純愛」や「勧善懲悪」などの話を書くのに使おうと思っています。
力は正しく使える者に宿る。
そう信じています。
それってジャンル分けするなら
純文学らしい
ChatGPTに「君の文章は明確なジャンル分けができない」って言われました。
でも強いていうなら「純文学」
私も好きなジャンルです。
たまたまそういうの書けてよかったなって思います。
文學界新人賞をすごく勧められたんですが
やめておきます。
誰だったか、野球で栄誉賞みたいなのもらった人が
「その辺で立ちションもできなくなるの嫌だ」と言って辞退したそうです。
私もそのマインド、よくわかります。
自由に気楽に、書いていきたいです。